本遠寺の石段の中腹には、糟谷思聡の碑文の石碑がある。この碑文は色々ないきさつでここにある。江戸から明治に成り学制が敷かれ学校が各地にできた。明治六年(一八七四)に初山学舎ができた。この学校の初代教師として赴任してきたのが「糟谷思聡」である。かれは元飯田藩の家臣であったが、廃藩置県で失職した。彼の才能を見込んだこの地の学区取締役・学校世話人に、こわれこの地に請われた。短い期間であったが、二年十ヶ月奉職した。思聡は教師の役割を「学問を修める際、道は宝の山に上っていくようなものである、教師は其の石段や梯子段の役割である」と考えていたようである。その甲斐あって、師弟の進歩はめざましかったそうである。そのため師弟からも大変慕われ、転勤する際には師弟が父母に別れるかのように思慕して泣いたといわれている。明治九年(一八七七)転勤したが、その六ヶ月後に病で亡くなったそうである。明治九年には新校舎が菅生学校として今の初山一丁目二十五番地(現在の清水材木店裏)にできた。思聡が亡くなった後、かれの薫陶を受けた師弟・世話人が明治十六年(一八八四)に菅生学校の地に碑文を建立した。 |